《伝える》ためには……

さて。

前回の考察の続きである。

 

renpoo.hatenablog.com

 

 

師匠である髭狸に軽く罠を仕掛けてみた。

メールで以下の画像だけを見せたのである。

「レンブラントの新作が見つかったそうです」と言って。

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この画像は、以下のページから抜粋引用したものだ。

 

wired.jp

 

髭狸はほどなく『この画像では判らないし、違うような感じ』と返答してきた。

正直、わたしは密かに舌を巻いた。

 

 

後日、直接会う機会があったので、そこでも「御本山」のページを参考に質問してみた。

 

 

www.nextrembrandt.com

 

髭狸としてはどうも質感や(目のズーム・アップに見られる)描き込みの異常を感じたようだった。

こちらのハフポの記事を参照すると分かるように、このプロジェクトでは

プロジェクトではまず、346あるレンブラントの絵画すべてをデジタルスキャンし、そのタッチや色使い、レイアウトの特徴などをディープラーニングアルゴリズムを用いてコンピューターに叩き込みました。また、絵画はすべて3Dスキャナーを使って、絵具の凹凸に至るまでを完全にデータ化しています。

 

コンピューターはデータにもとづいて、絵画を3Dプリントしました。最大13層にもおよぶ絵具の塗り重ねも再現され、最終的に"出力"された作品は誰が見ても、レンブラントが描いた油絵そのものにしか見えない出来栄えになりました。

 

としている。だが、髭狸の作品制作をすこし垣間見たことのある自分としては「たった13層?」と感じた———。実際、絵筆や刷毛で何万回、何十万回とタッチを入れて作り上げる画面であるから、その『結果』を 3D スキャンして解析してから、13 レイヤーの画面に縮約して 3D プリントしても、『本物』の画面づくりからはそれだけで乖離してしまうのであった。わたしも髭狸に鉛筆デッサンを習っていた頃、常に全体像を意識しながら、徐々に炙り出すように筆致を重ねて画面を作り出していった体験がある。

 www.huffingtonpost.jp

 

 

 

ここで引き裂かれる自分が居る。

到底、髭狸ほどではないが、わたしにも多少は絵を観る力があるように思われる。

いまは事情があって滅多に出かけなくなったが当時、美術館や博物館に通っていた頃には、大家の作品であっても是々非々でいろいろな感慨を抱いたものだった。批評的な審美眼において、ね。

 

自分自身も 3DCG で、筋肉の動きを再現した仮想人体を制作して足かけ十年以上となる。だから、『表現』に求めるモノも実は難易度の高いものまで含まれる。たとえば、顔面の筋肉の作り出す 1 mm 程度の起伏の差の織りなす構造自体が、『人間』とか『認知』とか『物自体』に対するメッセージだったりする。

 

だが同時に痛感もするのだ。

「観客の求めるモノはストーリー」と。

たとえば映画なら映画で、ラブ・ロマンスを求めたり、復讐劇のカタルシスを求めて、観客は劇場へと足を運ぶ。

 

いわばマスに向けてのエンタテインメント表現として考えた場合、わたしのような所詮「動くプリント」の世界で表現活動している者はジレンマに直面するのだ。

アルテを取るか、テクネーを取るか、と。

 

 上記のような「テクニック」は巧く発展・応用させてやれば、かなり面白い映像表現に繋がる気がする。だが、それは技術デモンストレーションに堕した作品になりかねない。

 

「ほんとうに伝えたいことはなにか?」

 

それを 1 カット 1 カットの作り込みから文脈を表現して画面に統合するような、アート・ディレクションこそが必要になる。そのようにして《物語》を届けたい。



以下の個人作品を制作したのが 20 年前、1997 年のことになる。

某局の仕事で「中国山水画の世界を 3DCG 映像化する」というプロジェクトに雇われて、SIGGRAPH '97 Electronic Theater に入選させたのだが燃え尽きてドロップ・アウトし、以後の流転の人生がある。その辞職直後、再起を賭けて3ヶ月間、熱中して作り上げたのが以下の短編映像だ。当時はネットのトラフィックにこのような映像をアップするインフラがなかった。

 

翻って、今年の『ブリティッシュ・ミュージアム』では北斎の展示をしており、この広告にプロジェクション・マッピングがかなり効果的に使われている(不満も多いが)。

 

 

 

もし、今後わたしが Non Photo-Realistic (NPR)表現のような映像作品を作る機会に恵まれるとしたら、機械学習などの技術を活用することは必須であるかに思える。ところがそれはあくまでテクネー(=技巧)なのだ。「監督」がほんとうに伝えたいことと、実際に観客に伝えられることはそもそも別次元のもので、いささかの解離がある。その大前提に自覚的なうえで『画面』を作っていかなければならない。そういった意味では、人工知能関連技術に期待するところはあるが、それはあくまでテクネーとしてであって、それを如何に活用してまとめあげるかにアルテ(=藝術)がある。そうすると、残念ながらまだまだ表層的な技術と理解したうえで機械学習などを活用して、『本当の目的』を実現しなければならない。

 

そのときに【私の核心/確信】はなんであるか、自覚的でなければ、ただの自慰表現に堕するだけだ。

 

そのとき、わたしは【対話】することができるのだろうか?

わたしは本当に【世界】を伝えることができるのだろうか?

 

切に願わざるを得ない。

 

www.youtube.com

 

 

補足:

ちなみに髭狸の作品のアップを抜粋して。

「筆致」とか「マチエール」といったものの意味をすこしでもお伝えしたい。

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難関を目の前にして

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まだ詰めの甘いところが散見されるが、(リアルタイム動作を念頭にした)ジオメトリとしてはそれなりの完成度に近づいている、と自覚できるようになった。
問題はテクスチャーである。
ひさしぶりに 3D.sk に登録して、既存の顔面テクスチャーなどをダウンロードして研究してみた。あるいは同業者の作例のなかでそれなりのものを見繕っては、髭狸と眼鏡猿を相手にディスカッションしてみた。

 


ダメだ、と思ったものは最早例示しない。
ただ、これはなかなか、と評されたものを以下に挙げる。

www.zbrushcentral.com

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成る程な、という見せ方である。

「我が娘」にもそれなりの見せ方を与えてやりたい。

 

 

ただ、此処で大事なことをひとつ。

結局、このように「ハイパー・リアリズム」めいた表現を追究していっても、それが視覚表現において何を意味してどんな意義があるのか、という根源的問いに直面する。
だからといって NPR にすればいいのか?という話でもないのだが、(3D) CG がヴィジュアル表現として、どんな認識哲学を展開すべきか、明確な意図をもってディレクションするような制作を重ねていかないと、たんなる表層の児戯に等しくなってしまう。

 


ほんとうにいろんなポテンシャルの萌芽を感じさせるが、同時に、極端に審美眼の問われる難しい時代になりつつあるとも痛感する。

 

視覚表現に於ける意味や文脈、その経時的構造———

ちょっと御無沙汰だった「いつもの店」に出かけてきた。

そこで同業者の作品を肴に批評することを通して、これからの時代、視覚表現において何を目指すべきなのか探ってみた。

 

好例とも思うので、次の 2 種類の作品をざっと観察していただきたい。

lovingvincent.com

 

www.mdn.co.jp

 

前者は、現代において数百人の油絵画家の労力を費やすことによって描いた「ゴッホ的」映像表現。

後者は、人工知能技術にゴッホらの絵柄を学習させて、それを別の画像に適用した静止画表現。

 

(前者より)

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(後者より)

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どちらも瞬時に一蹴された。

髭狸にも、眼鏡猿にも。

特に髭狸の指摘していたことが興味深い。

「ゴッホ」はゴッホ自身の生理、感覚、経験から「その場面を描くにふさわしい」筆致と工程を積み重ねることによって、『星月夜』ならば星月夜の、あのおどろおどろしくも静謐な画面を作り出している。それを他者(観客)は追体験することはできても、ゴッホ自身の『思索』や『思想』は推測の域を出ない。

 

そこにはヴィジュアル的な意味や文脈があり、それを如何様に表現するか、という色使いや筆致の組み立てがある。いわば、1 枚の絵画とは個々の作家による《視覚思想の経時的構築物》なのだ。

 

それにくらべて現代の人工知能関連技術(特に深層学習とか機械学習と呼ばれるモノ)は基本的に『パターン認識』の域を出ていない。此処には「時間を積み重ねることによって構築された構造物」としての《画面》が存在しない。だから、一番重要な【画家の思索の痕跡】がいっさい吹っ飛んでしまっているのだ。つまり、出力された結果画像が表層的なパクりに堕して、表現としては空洞化してしまっている。

これでは(ヴィジュアルに於ける)【意味】が伝わらない。

意味論的な必然性が成立していないのだ。 

 

 

素人目にはそれで誤魔化せるかも知れない。

 

だが、それは【表現の歴史】への冒涜である。

 

 

そう思うと、すくなくとも現状の「人工知能」にはまだまだ課題が多すぎるなあ、と痛感した。

 

 

それでもいまどきの Deep Learning とかが役に立つ分野や条件が多いのも事実だ。

特に、中小企業向けの案件では人材が払底してしまっている、と聞く。国家レヴェルの大型プロジェクトに駆り出されてしまったので、社会の中核で起こっているような諸問題に取り組めるような人材が吸い上げられてしまって、求人難に陥っているそうだ(わたしにすら、お声掛かりがある)。

 

でも、某所でとあるヴェテランに諭された。

「IT 技術で社会問題を解決できそうなことは多々ある。だが、ほんとうの問題はその会社や地域の『経営層』や組織文化、会社風土にあるのであって、つまり熟議と説得と決断以外に問題を解決する術はない。」

なるほど、そう言われればそうである。

自分も IT 屋として長年暮らしてきたから IT 技術(数学や物理などの理学、工学をふくむ)に片寄った発想をしてしまい偏重してしまうのだが、『世間』の大多数はそうではない。

なのに『ビッグ・データ』や『AI』のようなバズ・ワードに踊らされて、期待値を跳ね上げてしまう。

だが、ほんとうにそのビッグ・データや AI を使ったら自分の会社、というより「自分自身」の不出来さや問題性に直面せざるを得ない。これからの「分析者」はそこまで理解してコンサルティングしなければならない。ところが、すくなくとも日本の場合、そういったことを知りつつも、適当な金科玉条・美辞麗句を弄して顧客からカネを巻き上げる「自称コンサル」がこれまで多かったように見える。

勿論、「あとは野となれ山となれ」だ。

  

にも関わらず、AI 関連技術を使えば「それなりの答え」は出てしまう。

その答えは、実際の問題解決に対する適用において慎重で批判的な再検討を必要とするものであろうに、無闇と「答え」を援用するような社会になってしまい、人間自身の思考能力を奪う「御神託」や「御託宣」の類いになってしまうのではないか、と危惧してしまう。それが今回の『ゴッホ風の絵』問題の背後に潜んでいるのだ。

日本では特に、理工系において科学史や科学哲学的発想の重要性が理解されていない気配があるので、このことには警鐘を鳴らさざるを得ない。

 

 

そう思うと、なかなかこれからの《復興》を実現するには難題が山積していて、いろいろと、それこそ老獪さまでも動員して、すこしでも「全体のさいわい」を希求していくしかないなあ、と未熟ながら感じた。

なかなか困ったものである。

 

 

追記:
このエントリーについて、とある大学教授の方から「もっとスゴい事例があるよ」と御教示いただきました。
よく観察したうえで再度、別稿を構えたいと存じます。