オープン・ダイアローグ

『オープン・ダイアローグ』についての書籍をいくつか読んだ。 

オープンダイアローグ

オープンダイアローグ

 
オープンダイアローグとは何か

オープンダイアローグとは何か

 

 

自分なりに解釈すると『ネットワーク的治療』といったところか。

本書の中では知る人ぞ知る、バフチーンやボームの名が象徴的に出てくるが、『ダイアローグの思想(dialogism)』が意味している、相互的・相補的な共進化に期待するところ大きい。

 

個人的に「患者」をやって二十年近くになる。

そのあいだに受けた「仕打ち」は、このような『ダイアローグの思想』の真反対、まさにあべこべな対応であった。端的に表現すれば、それは『疎外』であり『阻害』である。ただ、これもまた日本という社会システムの前近代性、その病理に起因するのであろうから致し方ない。最早あきらめの境地に達しつつある。


先日、別の機会に語ったことだが、わたしたち団塊 Jr. 世代というものは「バブル崩壊」のツケを勝手に押しつけられてきた犠牲者だと思う。此の国で一二を争うくらいの人口的ヴォリューム・ゾーンであるにも関わらず社会的虐待を受け、「日本社会」の存続が危機に陥るほどの『氷河期』を過ごさざるを得なかったのは、これまた日本社会の『コンセンサス』であったのであると思う。

 

ただ、その団塊 Jr. たちは実のところ【金の卵を産むガチョウ】であったと、いまさらながらに痛感している。

 

その『ガチョウ』たちを政界や経済界のアホウな都合——短くて狭い視野——で虐待しておいて、この期に及んで「景気が回復しない」とか、何処のバカの戯れ言かと断じる。新自由主義的な価値観を装って、次世代社会のコアを握るべきヴォリューム・ゾーンがキャリア形成できず、労働者としても消費者としても日本システムを支えるべき人材へと育成できなかったのは「為政者たち」「経営者たち」の愚昧さゆえである。

 

結局、「古き世代」にとっては狭い認識での「家父長制モデル」しか構想し得ず、その結果、「家族以外」を排外するような狭い社会モデルしか構築できなかったのだ、だからこそ未だに前近代的な『中央集権モデル』への回帰を望む党派が存在するのだ、であればこれからの多様で並列分散処理パラダイムに基づいた国際競争のなかからは落伍していくのが日本の必然の運命なのだ、と強く直感する。

 

この窮状を救うのに《対話の思想》に注目が集まれば、とも思うが、それは『旧世代』の邪魔によって頓挫するであろう。

 

 

若い頃から気付いていたことだが、対話自体の持つ政治性・権力性というものがある。私自身、それらを図らずも使ってきた。そのような半生に猛省を促されるような思いであった。これから自らの関わる《対話》の場面を、もうすこし『車座』的なそれへと改善していきたい。具体的には、ファシリテーターのような役割に徹していく、ということである。

おそらく、この『オープン・ダイアローグ』という手法は、精神科医療の場面だけでなく、ほかの社会的シーン、ビジネス・シーンでも役立つ。その理由は自明でもあるし、あえて此処には記さないでおく。

 

 

本来ならば目指すべきだったこと

我が娘 “Miranda” については、いまだにいろいろ思うところある。

『敗戦記念日』の今日、この際だから、おもいきって吐き出しておきたい。

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Miranda はいわゆる『素体』である(この言い方もアニメ『ボトムズ』由来か)。

いまは 3DCG アプリ “Maya” のうえで動作する。

足かけ十年、彼女を制作してきた過程で気付いたことだが、人間の『造形』も『動作』も特定の制約から逸脱することは例外的であって、基本的にゆるやかな一定の範囲内に収斂している。それらを【相対変形空間】として記述することはできないか、という問題設定が出てきた。つまり『基本』の相対変形空間と、それからの若干の変容・逸脱というかたちで、すべての『動的人体構造』を記述して、いくらでもヴァリエーションのある 3DCG 人形を生成できないかと(別に「人間」に限る必要もないが)。

 

ということは、ある程度の品質で『素体』を制作することができれば、そこに Photogrammetry 技術(3D スキャン)などを組み合わせて、効率的に 3D キャラクターを生成して動かすことができるはずだと。

Miranda は、そのために生まれたはずの素体であった。

 

ところが髭狸に師事したことで、コースは「絵描き」の視点へとなかば強制的にシフトしていく。彼が言うには「写真を参考にしてはいけない」のだ。たしかにいまや一定の習熟を見たデッサン・スキルの観点から見れば、彼の言うことは多少理解できるようになった。写真の解像度やライティングでは、あっさりと抜け落ちてしまうディテイルに美術デッサン的な要諦はあるのだった。それには(静的なだけでなく動的なものもふくむ)美術解剖学の理解も必要だし、それを実際にモデリング&リギングして実装するスキルも必要なのだった。だが、これだけで「足かけ十年」の大半は消えていった……。

 

一時は筋肉の一本いっぽんのディテイルが、動作にしたがって浮き沈みするように設定していた時期もある。だが、それは『表現』として煩雑だったし、なによりも「有機的デッサン」を目指すのならば、アニメーションする displacement テクスチャー(ALDM)で実現すべきレイヤーであった。

 

結局、わたしがこのような「重箱の隅つつき」をくりかえして、結果を出すのに「十年」かかってしまったのは、社会的に追い込まれた境遇になってしまい、ほとんど独力ですべてを作らなければならなかったからだ。

そういった所与の前提を吹っ飛ばしてゼロ・ベースで再考するならば、ぜんぜん違った戦略が出てくる。

 

すくなくとも 3DCG という分野で一定の成果を収めるには、それだけで経営視点の戦略性が必要となる。それは単純に、商業的な成功によって運転資金——研究開発をふくむ作品制作工程は意外とかなりの資金的・労力的・時間的コストが掛かる。手作業に制約されかねない労働集約型産業の典型だからだ——を稼ぎながら、さらなる新技術を組み合わせて段階的精緻化をさせていく必要がある。

 

結局、いまになって思うのは、前出の Photogrammetry 技術に加えて、

  1. (相対変形空間における)顔の表情や四肢の動きのデータベース化
  2. それらの機械学習による『表現』の言語化
  3. そうやって得られた『表現』ナレッジと連動したデッサン・レヴェルのディテイル付加

 

といったことが必要だった訳で、それらの実現と人工知能技術による知見を組み合わせて、『台本を書くと仮想キャラクターが演技する』ような映像創作システムにまで、やっと辿り着けるんだろうなあ、と痛感する。

 

しかもこれ、基本的にエンターテインメント分野での活用に留まる。

応用ができるとしてもアスリートのモーション研究や介護分野の効率性研究といった程度のことしか思い浮かばない。しかも、それらはメタ・レヴェルでの研究であり、仮にそれらのフィード・バックを受けたとしても、実際に身体を動かして学修し血肉化するのは個々人のアスリートや介護士のことになる。そうするとデッサン・レヴェルでの精緻さより人間工学に基づいた合理性追求のほうが先に立つ。

 

で、このプロジェクトを細々とつづけて誰が喜ぶの?

せいぜい「同業者」ではないか。

その同業者が、世界中の観客を喜ばせるような(単純に楽しい、というより、色々と考えさせるような)映画作品に “Miranda プラットフォーム” を使ってくれるだろうか?

 

実はそのレヴェルをやっているプロダクションは上記のような試みをすでに何年もつづけて、実際の作品制作に活かして実績を上げているんだよね。映画でもゲームでも。

 

結局、ある程度先行してプロジェクトに着手した自分は、多少の発想力はあって個々の技術は発信してきたけれども、いまや時代遅れなのだ。ということは最早、業界内でもニッチな市場をターゲットにせざるを得ない。

 

別に、一生掛けてつづけるプロジェクトなんだろうから仕方ないけれど、その意義はきわめて個人的なものに集約しつつあると思われる。

残念ながら、そういうことなんだよね。

もし「そうじゃない」とおっしゃる方が居るのならば、是非とも御教示願いたい。

 

 

好きなことより、得意なことを

禅友と喧嘩した。

禅問答ではない。

 

彼はわたしに 3DCG デザイナーとしての復帰を願っている。

だが、躊躇してしまうのだ。

当然である。

わたしにとって 3DCG がそれだけ換金性の高いスキルであるのならば、平気でその道で食っているはずだからだ。

現実には、ろくに生計が立ててこられなかった負の実績がある。

 

これは最近ネット上でよく見掛ける物言いだが、

好きなことより、得意なことを 

 という言い方に尽きる。

自分にとって 3DCG は好きなことだ。

だが、スキル獲得とキャリア形成の両面において中途半端なことになってしまい、商業作家になることに失敗してしまった。そもそも作家活動復帰後当初の戦略性の欠如が問題だろう。それで髭狸の言うことを真に受けてしまった。「アーティスト」や「画家」になるならば必要かも知れない『眼』を身に付けるのに十年ほど労してしまった。

 

もし、IT 屋としてのスキルを基本に戦略を再検討したのならば、もっと 3D スキャンや機械学習技術との連携を模索し、デッサン技術の獲得に割くエネルギーを制限できたはずだ。

 

髭狸は非常に優れた絵描きである。

彼から見習うべき点はいまだに多い。

でも、IT やサイエンスのテクニカルな側面はほぼ理解できない。わたしがむしろ得意なそちらにリソースをもっと配分していれば、全然、応用力や展開力が違ったはずだと、いまさらながらに確信している。というのも類例をいくつも見掛けるからだ。

MakeHuman | Open source tool for making 3d characters

http://gl.ict.usc.edu/Research/DigitalEmily/

www.triplegangers.com 

facegen.com

 

そう思うとね、正直悔やまれる訳。

 

逆に言うと、IT やサイエンスにたいするポテンシャルを活かしたほうが余程 QOL が高くできる筈だ。

つまり、いまのように数学や物理を中心に勉強し直しながら SE + PG で食っていく、という路線である。そのほうが余程、他人様のためにも働けることになるだろうし。

 

もう、残り余生も少ない年齢になってしまった。

いまからでもできること、って自ずと限られる。

だったら、そこに傾注していくべきだと思うんだよね。

夢は捨てても。

 

“デザイン”

眼鏡猿にこってり絞られてきた。

いま請け負っているデザインの仕事について。

彼は老齢の元編集デザイナーなのである。

 

「デザインってなにか?」ということについて、原点に戻って再考せざるを得なくなった。自分がやっていたことはまるでクライアントの召使いのような作業で、それでは『デザイン』になっていないことを痛感した。つまり、クライアントとの『協同作業』による業務改善になっていない。それにポスターという限定されたメディアに於けるコミュニケーションとしても成立していない。

 

猛省。