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フルーツ紅茶

ラジオで「フルーツ珈琲」なるものを話題にしていた。

まあ、昔から存在するアレンジ・コーヒーではある。

たとえば、エスプレッソにレモン・ピールで香りをつけ『カフェ・ロマーノ』なんて呼んだりする。

自分も昔はちょっとマズい珈琲に出遭うと、オレンジ・ジュースとかアップル・ジュースで割ってしまうのであった。

 

でも、どうにも釈然としないんだよね。

そこで紅茶とパイナップルを合わせてみた。

偶にはイイ、という味。

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刎頸の交わり

先日のことだ。

仲間とひさしぶりに会ってきた。

彼は創作表現を生業としていて、しかもちゃんと食えているので、会話しているといろいろと勉強になるのであった。知り合った切っ掛けは彼の作品をネットで見掛けたからだが、それ以来、偶にリアルで会食するようになり、付き合いも長くなる。お互いのタイミングがひさしぶりに合って、コーヒー・タイムを御一緒してきた。

 

今回の対話も様々に触発されるものがあった。

わたしは受験浪人時代、『プロスペローの本』という映画に knock out されてから映像表現を志し、長じてからその手段として 3DCG を選んだ。まるっきり素人からのスタートだった。卒研は当時まだ珍しかった Inverse Kinematics の実装で、ソースコード込みで 100 頁の論文を書いた。指導教授の専門分野外だから、と勘違いして、一生懸命、ロボット工学を「説明」してしまったのだ。

だが後年の付き合いから、社会に出てクリエイティヴ系の知己が増えて、もう 20 年以上になる。そこでいろいろと学ばされるのだ、先人たちに。3DCG という『(動く)プリント』の世界でどうやって「密度のある」表現をするのか、と。やっぱり圧倒的にマチエールが足りないんだよね。そして、観客の求めるモノは【物語】であり【カタルシス】であるから、それ以上のことを(商業)作品に込めても『届かない』。

 

そんなことにまつわる悩みや課題を仲間に打ち明けて話し合った。

彼は美大の出身で、バリバリと手を動かして実際のキャンバスの上に油絵の具を定着させようと格闘してきた人なので、手に取るように分かるらしく、微に入り細に入り相談に乗ってくれた。しかも芸術に対する志向も、うちの業界にいるオタクたちとは一線を画していて、伝統芸術への知見が深い。おかげでまた一段と意気投合するようにお互いの見解を交わしてきたのであった。

 

いろいろ思う。

わたしが目指していたモノはなんだったのだろう?と。

本当は映像表現を通じて《物語》を書き綴りたかった。

ところがひょんなトラブルから流転するような人生を送り、フィクションより不可思議な人生を歩くようになってから十数余年である。もし、いまのわたしが《物語》を紡ぐとしたら、七夕伝説に言寄せて社会システムの興亡を描くような群像劇を描きたい、と思うのだが、そんな映画を作るにはそれなりのあれこれが必要となり、およそ現実的ではない。そうなると個人作家として小説でも書くしかないよなあ、という話になる。

 

困った人生を歩いている。

まあ、よしんば悟ってみたところでヒトはヒト。

禅仏教では「悟ってみたらイイよ?」とは投げかけるけれども百尺竿頭、「気付いたあと」はすべて捨て去って『元の木阿弥』に戻らなければ「それもまた病気のうち」となる。凡夫は凡夫らしく、スベったり転んだりしながら精一杯生きていく、それこそが完全無欠であり、それこそが百点満点である。そのことを先輩から教わり納得できてから、業病への構えも緩くなり、ずいぶんとラクな精神生活が帰ってきた。

大昔愛していた歌詞に云う。

"♬ひらきなおろう 大人になろうじゃないか"

老成していた若年期に戻ろうとしている現在、近世だったらもう老境に差し掛かりつつある余命。

残された時間は少ない。

多分、やりたいこととやるべきこととできることの諦めをつけたほうが好い。

別に自己実現はすでに果たしてしまった。

業績も残す必要はない。

ただ生きて、ただ死ぬ。

そこにのみ課題がある。

 

最後に。

友情に感謝を!

 

因果必然・因果応報・自業自得

天罰ってあるんじゃないか、と信じるようになりました。

 

人間、生半可な覚悟では悪さはできないな、とも感じる。

以前から偶に解説してきたことをあらためてまとめておきたいな。

 

わたしたち人間のほとんどは、自分の存在を個別で独立したカタマリとして認識している。

だが、それは本当に正しいのかな?

 

たとえば一人の人間を構成する細胞の総数は、最近の知見だと 37 兆個だそうだ。

その細胞一個につき原子は 10 の 14 乗個程度含まれるらしい。
それらを掛け算してみたら途方もない桁になる。
素粒子のレヴェルにまで遡れば、さらに倍加していく。

 

物理的に観ただけでも、素粒子レヴェルでそれだけの因果が、この瞬間この瞬間とインタラクションして、さらに因果の連鎖をしていく。

 

実は、仏教の『輪廻』の実態とは本当はこれを指すんだよね。

もっと具体的に説明していくと、そのような素粒子的因果に始まり、細胞レヴェル、器官レヴェル、神経レヴェル、個体レヴェル、集団レヴェル……と、あらゆるレヴェルで因果的連鎖=『輪廻』を片時もなく、くり返している。言葉によるコミュニケーション・レヴェルも、概念を用いての思考レヴェルも、御飯食べたりジュース飲んだときの感覚レヴェルも、なにごともすべて《因果の輪廻》で構成されている。

宮沢賢治は『銀河鉄道の夜』で表現したよね、『明滅する交流電灯のように』と。

 

この法則はきわめて単純に、かつ厳密に働く(個々人の人間にはそうは思えない時期のほうが多いけれども)。
これを【因果必然】という。

 

まあ、それでも個々人のレヴェルでは理不尽なことが多いのが、此の世の理ですよ。

時には、不条理な出来事に翻弄されることだってある。

でも、それらもふくめてすべて、幸も不幸も自然の成り行き、って話です。

 

でね、そういう因果のカルマは返ってくるんですよ、《自分たち》に。

「自分たち」ってのは自分たちのグループ、というよりは全体です。

だけど近接性はあるんですな、因縁の観点で見ると。

つまり空間的には拡がりのあるところに「善因善果」「悪因悪果」、カルマの報いが返ってくる。具体的には本人に限らない、家族、親族、友人、知己、子孫に覿面に。

ええ、「子孫」もです。時間的にも拡がりのあるところにカルマは返ってきますわ。

 

「あいつは敵だ!」「苛めてやれ!」「傷つけてやれ!」と思って暴力を振るって良い気分になっていたら、そのうち、なんだか雲行きがアヤシくなって「あれれ?」、あれこれと過去の悪事が気になり出す。自分の身内が悲惨な人生に転落する。挙げ句の果てに自分自身がメチャクチャな展開を始める。

これを【因果応報】と言います。

 

この業報を受けるのはすべて「自分」です。

運命は「かならず竹篦返しする」仕組みになっています。

これが【自業自得】の真意。

つまり『自』って個々人の単位に収まらない訳です。

『自分たち全体』に及ばざるを得ないのです。

 

だって、わたしたち生きとし生けるものを『因果の観点で』隔てる壁は、この大宇宙のどこにも存在しないのですから。

 

わたしたちは人間に始まって(わたしが人間の一種なんで便宜上ここから始めますが)動物、植物、鉱物に到るまで一切の万物が「大宇宙」という、たった一個の集合的生命体なのですよ、『因果のシステム』として見ると。

 

古代、お釈迦さんという人が居ました。

ジャータカ的な寓話による「生まれた直後にスクッと立って」みたいな話はどうでもいい。ほんとうは王族に生まれながらもいろいろな紆余曲折があって出家、何年もの苦行の果てに疲れ果て、そのときふとした切っ掛けから悟りを得た彼はこう獅子吼します。

『天上天下唯我独尊!』

 

これ、通俗的には「オレは悟ったからエラいんだ!」と解釈されています。それもまた致し方ないところです。解釈する側が凡夫なので。

 

でも、違うんだよね。

 

お釈迦さんは、

「わたしたちはこの大宇宙という神秘的生命体だ。全部でひとつだ。ただ独りしかいない。素晴らしい!!」

と気付いた。

この大宇宙を仮に「仏」と呼ぶ訳です。「神」と呼んでもいい。

 

これを追体験するのが坐禅だったり、念仏だったり、題目だったり、護摩行だったり、いろいろな修行の方便であったりする。別にキリスト教の祈祷でも良いし、イスラームでも、ヒンドゥーでも、いろんな流儀があるけれど、結局とどのつまりは『心神合一』の体験によって、この大宇宙のほんとうの姿に気付く、これが「修行」の第一関門な訳です。

 

で、やる気になれば、簡単なことではないけれど、そんなに難しいことでもないよ、悟る体験というのは………これが禅門の主張で「とりあえずやってみない? 人生の大問題が解決するよ? Let's Try!!」ってスタンスだったりする。
まあ、悟ったからといって人間は人間であり続けるんで、あいかわらず人生は浮かんだり沈んだり、というより概ねスベったり転んだり、とどのつまりは苦しい訳ですが………以前よりはラクだったり。


だから此の頃、富みに思うんですよ。

天罰ってあるんじゃないか、って。

人間、生半可な覚悟では悪さはできないな、って。

 

 

今週の『週刊新潮』読んだからなんですが。(苦笑)