「リアリズム」

今晩は「いつもの店」に出かけてきた。

そこで髭狸と一緒に、小三治と円生の落語を聞くところから始まった。

ほどなく喫煙デザイナー登場。

三人で競馬や麻雀とあれやこれや話し込む。

途中から『芸術に於けるポピュリズムと質的退行』の話題になって、「ああ、そういえば」と先日見掛けたツイートを皆に見せる。

https://twitter.com/keredomo_/status/859648051153121281

それが以下の画像。

よく比較して御覧になっていただきたい。

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髭狸に言われた。

「これこそがリアリズム」だと。

上記下段の画像はアントニオ・ロペス・ガルシアの有名な作品である。

ところがその実際の地点に立って写真を撮ると、TW 主から引用させていただいたような画像になる。

これこそが『リアリズム』だ。

 

つまり、絵画表現に於いてリアリズムとは「観ている人間」の主観的認識(この場合、視覚)を如何に表現するかで、人間個々人の《世界認識》を浮きだたせるような表象になっているのだ。此処に「見ることの哲学」がある。

 

この、アントニオ・ロペスの展覧会が Bunkamura であったのは十年近く前だったかに記憶している。そのとき私は、上記の絵に近づいて、よくその筆致やマチエールを確認したうえで、それから遠巻きにして観察した。正直、接近したときの「密度」が足らない気はしたが、それはそれで立派な絵画であった。

 

だが先日、上記の比較を見掛けて唸った。

そうか、パースまでも編集していたのか、と。

そういえば髭狸もまた、リアリズムの作家で静物画ばかり描いている我が師匠であるが、彼は「真正面の視点から平行投影に近いようなパースで」果物や花卉を描くのを基本として徹底しているのであった。彼は彼なりの視覚哲学で『神の眼差し』というものを意識して長年作品制作しており、一見『写実』に見えて、「写真みたいですね」と素人にたびたび評されるような具象を描いてきているが、必ず筆の筆致とかが残るようにディテイルを描き込んでいるのであった。

 

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自分も下手くそながら片足を突っ込んできた世界、その奥深さにあらためて舌を巻いた。私の場合、『プロスペローの本』という映画に knock out されて、そこから映画監督を志し、「先ずは現場の下積みから」と 3DCG の道に長じてから身を投じたのだが、初期に巡り会った仕事場があまりにも悪辣だったために、精神を壊して、そのあとの流浪の遍歴がある。

 

だが、わたしがやりたかったのは、このようなレヴェルの表現なのであった。

いや、「映像」という動くメディアではあっても。

 

それでも「観客」の求めているモノは違うのだと思う。

お客さんは正直『物語』を見に来る。

そして、それ以上の《表現》はおそらく自覚できない。

だが洋邦問わず、一時期は全盛を誇った、総合芸術としての『映画』も往事は《表現》の域に達していたことは、わたしのような経験の足らない映画ファンにもよく分かる。

 

此処でいきなり大きな主語になってしまうが、「わたしたち」はいまから《なにを失おうとしているのか?》

いまどきの、ファッション誌に掲載されている広告写真なんかを見ていると、気持ち悪くて仕方がないことが多い。テレヴィ CM も「(松岡正剛の、もはや古臭い)タイアップ広告」めいたものを散見するが、それだけでなくとも『子供だまし』の表現が増えた。それはやはり大量生産・大量消費社会の進展と崩壊のなかで《神話》が喪われていく過程なのだと思う。根源的なブランド・イメージや商品としての訴求力が減っていくにしたがって、小手先の、耳目を引きやすい「と思われる」キッチュな広告表現が過半数を占めるようになっている。いわゆる「広告代理店的誤解」である。

 

この衰退、この凋落の傾向に歯止めが掛けられれば、と思っていた時期も長いが、もはや手遅れ、というより、余計なことをすると却って拍車が掛かる情況ではある。

 

そうなると、もう個人レヴェルとかグループ・レヴェルで「クリエイティヴ表現」というものに向き合わざるを得ない。それでも自分がしあわせなのは、親ほども年の違う世代の表現者たちと二十年近く付き合ってきたので、多少は『往事のクオリティー』について察しがつくことだ。

 

この、ポピュリズムという名の退行の渦中で、ひとたびは表現を志した者として、今後どのような活動をしていけるか分からないが、学生時代に芸術表現に触れた、あの感動、そして見性体験後の、あの絶望に——あまりにも宇宙は完璧で、そこになにひとつ付け加える必要がないという、あの絶望に——つまり『初心』に返って、地道な活動を続けられれば………もしかすると、また映像制作に若干関わる可能性が出てきている今般に思う。いや、あんまり芳しくない選考状況なのだけれど。

 

まあ未だに、あたまでっかちだよな、と自省しつつ。