本来ならば目指すべきだったこと

我が娘 “Miranda” については、いまだにいろいろ思うところある。

『敗戦記念日』の今日、この際だから、おもいきって吐き出しておきたい。

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Miranda はいわゆる『素体』である(この言い方もアニメ『ボトムズ』由来か)。

いまは 3DCG アプリ “Maya” のうえで動作する。

足かけ十年、彼女を制作してきた過程で気付いたことだが、人間の『造形』も『動作』も特定の制約から逸脱することは例外的であって、基本的にゆるやかな一定の範囲内に収斂している。それらを【相対変形空間】として記述することはできないか、という問題設定が出てきた。つまり『基本』の相対変形空間と、それからの若干の変容・逸脱というかたちで、すべての『動的人体構造』を記述して、いくらでもヴァリエーションのある 3DCG 人形を生成できないかと(別に「人間」に限る必要もないが)。

 

ということは、ある程度の品質で『素体』を制作することができれば、そこに Photogrammetry 技術(3D スキャン)などを組み合わせて、効率的に 3D キャラクターを生成して動かすことができるはずだと。

Miranda は、そのために生まれたはずの素体であった。

 

ところが髭狸に師事したことで、コースは「絵描き」の視点へとなかば強制的にシフトしていく。彼が言うには「写真を参考にしてはいけない」のだ。たしかにいまや一定の習熟を見たデッサン・スキルの観点から見れば、彼の言うことは多少理解できるようになった。写真の解像度やライティングでは、あっさりと抜け落ちてしまうディテイルに美術デッサン的な要諦はあるのだった。それには(静的なだけでなく動的なものもふくむ)美術解剖学の理解も必要だし、それを実際にモデリング&リギングして実装するスキルも必要なのだった。だが、これだけで「足かけ十年」の大半は消えていった……。

 

一時は筋肉の一本いっぽんのディテイルが、動作にしたがって浮き沈みするように設定していた時期もある。だが、それは『表現』として煩雑だったし、なによりも「有機的デッサン」を目指すのならば、アニメーションする displacement テクスチャー(ALDM)で実現すべきレイヤーであった。

 

結局、わたしがこのような「重箱の隅つつき」をくりかえして、結果を出すのに「十年」かかってしまったのは、社会的に追い込まれた境遇になってしまい、ほとんど独力ですべてを作らなければならなかったからだ。

そういった所与の前提を吹っ飛ばしてゼロ・ベースで再考するならば、ぜんぜん違った戦略が出てくる。

 

すくなくとも 3DCG という分野で一定の成果を収めるには、それだけで経営視点の戦略性が必要となる。それは単純に、商業的な成功によって運転資金——研究開発をふくむ作品制作工程は意外とかなりの資金的・労力的・時間的コストが掛かる。手作業に制約されかねない労働集約型産業の典型だからだ——を稼ぎながら、さらなる新技術を組み合わせて段階的精緻化をさせていく必要がある。

 

結局、いまになって思うのは、前出の Photogrammetry 技術に加えて、

  1. (相対変形空間における)顔の表情や四肢の動きのデータベース化
  2. それらの機械学習による『表現』の言語化
  3. そうやって得られた『表現』ナレッジと連動したデッサン・レヴェルのディテイル付加

 

といったことが必要だった訳で、それらの実現と人工知能技術による知見を組み合わせて、『台本を書くと仮想キャラクターが演技する』ような映像創作システムにまで、やっと辿り着けるんだろうなあ、と痛感する。

 

しかもこれ、基本的にエンターテインメント分野での活用に留まる。

応用ができるとしてもアスリートのモーション研究や介護分野の効率性研究といった程度のことしか思い浮かばない。しかも、それらはメタ・レヴェルでの研究であり、仮にそれらのフィード・バックを受けたとしても、実際に身体を動かして学修し血肉化するのは個々人のアスリートや介護士のことになる。そうするとデッサン・レヴェルでの精緻さより人間工学に基づいた合理性追求のほうが先に立つ。

 

で、このプロジェクトを細々とつづけて誰が喜ぶの?

せいぜい「同業者」ではないか。

その同業者が、世界中の観客を喜ばせるような(単純に楽しい、というより、色々と考えさせるような)映画作品に “Miranda プラットフォーム” を使ってくれるだろうか?

 

実はそのレヴェルをやっているプロダクションは上記のような試みをすでに何年もつづけて、実際の作品制作に活かして実績を上げているんだよね。映画でもゲームでも。

 

結局、ある程度先行してプロジェクトに着手した自分は、多少の発想力はあって個々の技術は発信してきたけれども、いまや時代遅れなのだ。ということは最早、業界内でもニッチな市場をターゲットにせざるを得ない。

 

別に、一生掛けてつづけるプロジェクトなんだろうから仕方ないけれど、その意義はきわめて個人的なものに集約しつつあると思われる。

残念ながら、そういうことなんだよね。

もし「そうじゃない」とおっしゃる方が居るのならば、是非とも御教示願いたい。