『経済回って社会回らず』

表題は、宮台真司氏のよく使う言いまわしだ。

 

『経済回って社会回らず』のコワいところは、目先の経済を回すために、人的資本などを過酷に消費してしまうことだ。当面は経済が回ってしまうから、社会に開いた大きな穴は隠蔽されているものの、それは市民社会や市場を構成する労働者を浪費し弱体化させてしまうので、段々と「地盤沈下」が進行してしまう。目に見えるほど事態が顕在化して気付いたときには、すでに回復不能な状況に陥っていたりする。

 

ここ数十年の日本的政治・日本的経営は、たとえば就職氷河期世代を買いたたいて酷使することで成り立っていた。賃金的に、時間的に、キャリア的に、人間的に。ところがバブル崩壊後の経緯でそのように強いられた彼らの世代は同時に第 2 次ベビー・ブーマーでもあった。本来は彼らを『金の卵を産むガチョウ』になるように育てなければ、労働市場としても消費市場としてもジリ貧に直面するのは……火を見るより明らかだった筈だ。

 

もう一度くり返すように要約しておく。

『経済回って社会回らず』のような社会的・経済的政策は、ほどなくして『社会回らず経済回らず』に至る、ということ。

ただ、これは過去、そのような政策の実施を選択、ないしは許してきた日本市民の全体責任なので従容として甘受するしかない。

 

ちょっと思い出して調べた。

武田信玄は『甲陽軍鑑』に言ったそうだ。
「人は城、人は石垣、人は堀」。

 

結局、そのような人々が社会や市場を構成していたのだ。

その人々のあいだに亀裂を走らせて分断するような政策を長年つづけてきた国家が衰退しないはずがない。

 

オートポイエーシス理論では

「要素がシステムを構成するのではなく、システムが要素を産出する」

と謂う。

だが、その要素がまたシステムの挙動に変更を与えるのも、これまた真理である(わたしの理解が稚拙だったら御免)。

 


この数十年のキーワードはデフレ・スパイラルであった。
それは経済的な現象だとのみ思われてきた。

わたしはそれに留まらない、と感じる。

日本は社会的にもシステム的にもデフレ・スパイラルを続けてきたのだと。
きちんとした戦略立案や政策変更のリスクを取れなかったせいで、あるいはそういった政策に対するコンセンサスを得られなかったので、対策が実行できなかった。

 

《アベノミクス》には功の面もあるのは事実であろう。

ただ《アベコベノミクス》という謂い方が散見されるように、罪の面もこれまた同時に存在する。

  

これまで碌に効果を上げられず次から次へとすり替えられてきた【三本目の矢】。
今度は「働き方改革」や「人づくり革命」だそうである。

内容を見るとこれまでに比べ、すこしだけまともなように見受けられる。
なんで、こんな初歩的なことに気付くのに数十年も掛かったのであろうか。
その理念に逆行するように、人的資本を酷使して濫費してきたのは、どの政権か。

それでもやらないよりはマシなのだと思う。

その為の財源を、政治的実行力の不足のために予算の組み替えで実現できないのならば、それは逆進性の高い消費増税ではなく、累進制を昭和の時代にまで戻すような所得増税ではないか、とは感じる。が、それもまた支持者層の離反を招くので政権与党としては実行できまい。


因果必然・因果応報・自業自得。

諸行無常・諸法無我。

因果無人。

全業全得。



結局、「社会はいいとこ取りできない」。
これもまた宮台氏の口癖である。
問題を隠蔽したり先送りしたところで、水面下で輻輳化して、やがて手の着けられない状態になってから顕わになるばかり。あとはカタストロフへ一直線だ。


そのような《衰退》が社会に起こったところで、個々人として見れば活路の見出しようもあろう、生き方の選びようもあろう。相対比較の尺度で見れば、勝負に勝つこともできるだろう。

それにこれは日本社会が暗黙裏に、かつ合理的に選んだ道なので、それはそれとして、また数十年も経てばそれなりの《適応》がシステム的に達成されるだろう。

——そのような時代に生きる人々がどんな感じ方をしているか、幸福であるかどうかは留保しておくが。


ただ、淡々とできる範囲のことをやって生きるのみ。
Good Luck!!